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背広の後に着るものークサオヤジ改良講座②  馬場啓一著

「王さんの黒いズボン」

 ここに王貞治の発想と呼ばれるものがある。
 不世出のホームラン・バッター王貞治は、太い脚を持っていた。特にその太腿の太さは尋常ではなかった。これはスラッガーなら仕方のないことだが、お洒落な王さんは、何とかならないかと思っていた。だって何を着ても、 太い腿がぶち壊しにするように思えたのだ。
 何とかしたい。長い間、王さんは思い悩んだ。自分の体型における太腿の問題を解決するのに、どういう方法を取るべきか。
 勿論グランドでは、ジャイアンツやホークスのユニフォームを着るのだから、こんなこと問題にもならない。ご承知のようにユニフォームのズボンはごくゆったりしている。だから太腿がどうこうという話にはならない。 
 問題は私生活である。オフのファッションをどうするか、なのだ。
 結果として王貞治は、日常的に黒いズボンを着用することで、この問題に対処したのである。
 なあんだと言わないで欲しい。これこそがコロンブスの卵である。
 目立たないズボンを穿けば、太腿も目立たない。それには黒という目立たない色のズボンを穿けばよい。そう考えたのですね。
 さすがに、野球選手をやっていなければ東大に行っていたかもしれないという、明瞭な頭脳を有する王さんである。
 以上が基礎その三。
 そうなのだ。弱いと考えている部分は目立たなくすればよいのである。「ブリット」でもマックイーンは、ツイードのジャケットの下にダークなズボンを穿いていた。目立たなく、そして細く見せるためである。
 同じく黒いズボンで印象的だったのはユル・ブリンナー。アメリカの雑誌「ライフ」で、フランク・シナトラのパーム・スプリングスの屋敷を訪ねた時のスナップ写真だ。1965年フランク・シナトラ生誕五十年記念号である。
 シナトラは今年2015年に生誕百周年を迎えるから、これはちょうど五十年前の話ということになる。半世紀前である。
 世界で最も知られた週刊誌「ライフ」は、時々こういう洒落たことをやる。エリザベス・テーラーが四十歳になった、というただそれだけで、わざわざ彼女の特集を組んだりするのである。曰く「リズ四十になる」
 それはとにかく、ここでブリンナーはシナトラと共に、カクテルのグラスを手に寛いでいた。
 昼間は暑いから、日没近い時間だったろう。まさか早朝ということはあるまい。 
 場所はプール・サイド。パーム・スプリングスならではだ。
 砂漠の真ん中の保養地だからね。ラス・ベガスがカジノの都なら、パーム・スプリングスは豪華な邸宅が並ぶ保養地だ。日本だと湯河原、という感じか。
 シナトラはシナトラ・オレンジと呼ばれる半袖のサファリ・シャツ。対してブリンナーは白ポロ・シャツに、同じく白のカーディガン。ポロの襟は立ててある。そして黒いズボンにローファー。素足である。
 ローファーは甲の部分が白く、身頃は黒の、お洒落なタイプ。後年ボビー・コールドウェルというA・O・Rの歌手にインタビューした時、同じローファーを履いていたのを思い出す。ジョン・ロブかな。もっとも五十年前の高校生に、そこまではわからない。
 ここでのブリンナーで特に感心したのは、そのズボン。ウールの薄手の、そして黒の、ズボン。これがお洒落だったのだ。
 パーム・スップリングスで寛ぐのだ、当然カジュアル・ルックだろう。それがアロハ・シャツに綿パンツなんぞではなく、ポロ・シャツ、カーディガンに薄手のウールの黒い細身のズボン。そこに洒落た白黒コンビのローファーを素足で履くのだ。シナトラのサファリ・シャツを完全に抜いていましたね。
 つまり、黒いウールの極上のズボンは十分にカジュアル・ユースが効く、ということだ。さらに折り返しはダブルだったのが、今回改めて確認し判明した。ズボンは剃刀の刃先のように薄く、尖っていた。
 ちなみにシナトラも黒いズボンだが黒のソックスを着用。半袖のシャツに合わせるには、ソックスがちと重い。ブリンナーの方が粋である。
 要約すると、黒い薄手の上等のズボンに、黒白コンビのローファーを素足で履く、ということ。で、これが粋だったのだ。
 今すぐ、誰にでも真似できる。是非試されたい。
 寛ぎとかカジュアルというのは、決してくだけた素材やスタイルでなくとも、大いに大丈夫なのである。そして本来ならドレッシーとされる黒いウールの薄手のズボンも、穿き方と場所によっては、最高にドレッシーなカジュアル、として通用するということ。
 ドレッシーなカジュアルとは形容矛盾であるが、ドレッシーとは「お洒落な」と理解されたい。ここで素足にローファー、というのが決め手になっている。
 樺太生まれというユル・ブリンナーも決して体格に恵まれたスターではなかった。だが、その精悍な顔つきと、独特のオーラで一世を風靡した。それは、こういうカジュアルなスタイルにも表れていると、十五歳の高校生は思い知ったのであった。
 勿論のこと黒いズボンは王貞治の場合と同じ効果を上げていたこと、言うまでもない。
 このように説いていると、服飾というのは目の錯覚を利用して、いかに体型の弱点をカバーするかにある、ということがわかるだろう。
 騙しのテクニック、と言ってしまうと実も蓋もないが、実際に、物理的に、体型を変革することができない以上、こうするより外には仕方ない。そしてスクリーンすなわち映画というのは、そういうテクニックの集積なのである。 
 ここで余談だが、邦画界にはセッシュウという言葉がある。これは映画撮影の現場で、背の低い出演者を助けるため、脚の下に物を置くことである。こうして背の高い人物として映してしまえば、観客は高いと信じてしまう。カメラに映るもの、それがすなわち観客にとっての真実なのだ。
 セッシュウは背の低かった早川雪舟の名に因んでいる。早川雪舟はもう過去の人だが、セッシュウする、は今も現役の言葉だ。
 ハリウッドではこれをラッドする、と呼ぶ。アラン・ラッドの名が由来である。名作「シェーン」で名を挙げたアラン・ラッドも小柄で、身長は百六十五センチくらいだったらしい。これは日本人の我々の中にあっても小柄の部類である。
 洋の東西を問わず、こういう呼び名があるのは、実際とスクリーンとは別であり、それで何が悪いと、人々が思っていたからだ。
 つまり「どうであるか」より「どう見えるか」が大事なのである。小柄な俳優のアクション場面で、相手を小柄な連中で揃えることで、背の低さをわからなくするのも、同様である。例えばジョン・ウエィンは、その巨体ぶりを強調するため、比較的小さい馬を選んで乗った、という。 
 男の体格と衣料との関係のおいても、このことは大いに有効であろう。ましてや定年の世代にとっては、こういう工夫や方策はつとに重要である。
 最後に付け加えるなら、こうやって見た目の工夫を行う一方で、前記の相性の問題をもう一度思い出してもらう必要があるということ。これを言いたい。
 見た目に心を砕く中で、問題のズボンが果たして自分の体型すなわちここではズバリ脚の格好や太さ、長さと、上手に折り合いをつけているかを、もう一度確認されたい、と。
 ズボンには織りの調子、といった布本来の性格がある。個性とかクセ、である。そこには一定の方向性があり、脚の微妙な曲り具合やソリ加減と、よくマッチしているかを確かめる必要がある。
 例えば内股気味の脚に外股の方向性を有するズボンだと、ケンカしてしまって、真っ直ぐに見えない。と言って内股に、内股気味のズボンでも、それが強調され、うまくない。
 ここは緩やかに内股気味を保ちつつ,真っ直ぐに矯正するような性格を有したズボンであるこが望ましい。
なにしろ見た目が一番、なのだから。



「柄のズボンは捨てる」

 見た目こそ命、というセオリーによるなら、柄のズボンは即刻捨てられるべきものである。何故ならそれは見た目にゴテゴテし、脚を太く、短く、見せてしまうからである。
 ゴルフ・ウェアとして派手な柄のズボンを穿く向きがある。カジュアル気分の横溢したゴルフ場では大いに許されるし、日本人のファッションで最もお祭り気分の現れたウェアであろう。
 しかし皆様あれが本当に似合っていると思って穿いているのだろうか。大学の学園祭的な気分で穿きこなしているが、決してお洒落だとは思っていないのではあるまいか。ちょうどお祭りに法被や半纏を着るような、そういう感覚で穿いているのだろう。
 その証拠に日常生活で穿く人は、まずいない。誰もがあれはお祭り気分のものであると判っているからだ。近所のスーパーに週末出かける時だって、こういうズボンを穿くことはまれである。第一奥方が黙っていない。
 アナタよしなさいよ、そんなもの穿くのは。
 こう言われるのがオチである。
 そうです、奥方はよく判っているのだ。それよりよっぽど、例えば派手目のシャツに黒いウールのズボンなんかの方がお洒落だし、リッチに見える。彼女たちはリッチに見えるというところに、こよなく力点を置いているのである。
 だって定年後のライフ・スタイルというのは、とどのつまりが、如何にリッチに暮らしているか、をプレゼンテーションしているに他ならないからだ。その内情はともかく、である。
 だがそのような奥方連中の目というのは、つとに重要である。男には判らない、理解できないような価値基準が、そこにはあるからで、彼我の違いはまことに大きい。だがそれが社会のオピニオンとして機能しているのも、事実なのだ。
 柄のズボンというのは、そういう彼女たちにとって大いに唾棄すべきものの一つで、これならいっそジャージの上下の方が目立たなくていい、というくらいに思っている。夫婦揃ってスーパーやホーム・センターに出向く時、すれ違う近郷近在の同世代の夫婦連中は、比較対象としてこれ以上ないという存在なのだ。
 我々は謙虚にその声を聴く必要がある。
 どうしてガラ物が穿きたいという人にはグレン・チェックとかヘリンボーンといったトラディショナルなパターンがある。トラディショナルとはご承知のように昔からある柄のことで、これで背広を作ったりもする。
 他にツイードのホップサックとか重めの生地も存在するが、結構クセのある存在だから着こなしのスキルを要求される。何より余計なアクセントを脚にあしらうことはないわけで、そんな冒険というか無駄なことは、やはり避けるべきだろう。
 カラー・パンツも同様で、これもゴルフ・ウェアとして一部に人気がある。臙脂や黄色、ブルーといったカラー・バリエーション。
 アイビー・リーグの大学の同窓会のスナップなどでブルー・ブレザーに白いボタン・ダウン・シャツ、それにスクール・カラーのネクタイ、そして色物のズボン、というのを見せられることがある。彼らが海外遠征する時にも、同じようないでたちだ。
 これが我々に似合うのか、というのはなかなかに興味深いテーマだが、やはり避けた方が無難だろう。ただ、ブルーや臙脂のズボンといったアイテムは、白いボタン・ダウン・シャツに無造作に合わせると、結構気分の良いものであることは確かである。派手な色の持つ意味が、気分に反映されるのだろう。ゴルフ場で人気なのも、そのためだ。
 ガラ物よりは、消極的な意味で、認めていいかもしれない。



「シングルかダブルか」

 ズボンの裾はシングルか、それとも折り返しのダブルか。これはオケイジョンによると、これまでされていた。いわく、フォーマルにはダブル、そしてカジュアルにはシングル。ただし極フォーマルである燕尾服やタキシードにはシングル。まあ、そういうわけである。 
 ここで本書の読者にはズボンの裾は断然ダブル、と提唱したい。理由は、そうバランスを考え、ズボンの下部に比重を移すためである。チャッカー・ブーツを選ぶのと同じ発想だ。
 すらりと脚を見せたい時、シングルであっさり流すのと、ダブルで先端を重くするのとでどちらがすらりと見えるだろう。
 これはダブルが正解なのですね。シングルより、見た目、サラッと意思を感じさせるものになる。
 手っ取り早く、安価な綿パンツを二本買い求め、それでダブルとシングルを穿き比べれば、結果は自ずから明らかだろう。見た目、すなわち目の錯覚で、ダブルの方がさらりと長く見えるのだ。
 ただし、裾幅は普通より狭い感じで、丈もやや長めとする。これはジーンズを折り返して穿く発想に通じるもので、ストンとストレートで穿くより、やや小さな、そう二センチちよっとくらいで折り返した方、がスマートに見えるのと同じなのだ。目の錯覚である。
 ジーンズの場合は二センチちょっとだが、綿パンツや普通のウールのズボンの場合は折り返しは三センチ五ミリが妥当な数字であろう。要はバランスで、一八〇センチというような長身の人の場合は四センチくらい必要かもしれない。でもここでは、そういう恵まれた体型の方は相手にしていません。
 お店で、綿パンツの裾をダブルにしてくれとオーダーすると、こいつシロートだなという顔をされる。まことに困ったもので、誰がどういう教育をしているのか知らないが、メンズ・ショップに通って五〇年という人間にとって、まことに笑止千万なことである。
 かつて、まだ日本人が洋服に馴染んでいるとは言い難かった時代、メンズ・ショップの店員はキリスト教の伝道者のような存在であった。フランシコ・ザビエルだったのだ。彼らは有り難い教えを広める先達さまだった。
 だから、洋服のイロハから教えねばならなかった日本の未開人たちに、綿パンツの裾は三十センチで、折り返しのないシングルが神の教えであると、おごそかに、のたもうたのである。何も知らない日本人は、それこそ金科玉条とこれを押し頂いた。爾来半世紀、教えは固定されたままメンズ・ショップのマニュアルに刷り込まれ、何も知らない店員たちの教科書となった。
 ここは本当は、こうではないか。
 「はいお客様、通常綿パンツはシングルですが、お客様の好みは多様化しております。ダブルでも今日は十分通用いたします」
 もし量販店に文句があるとすれば、ここですね。
 急激な出店で人手が足りなくなり、様々なレベルの店員が集まることとなった。文字通り玉石混合である。そしていけないことには、優れた店員も転勤や配置転換が目まぐるしく、地元の顧客との良い関係が結ばれないまま次の店に移ることになってしまう。
 女子は比較的移動が少ないが、それでも顔馴染みになった女性店員が、いつの間にか姿を消していたりする。ここはひとつ地元との密着という観点から、人員配置を考えていただきたい。
 車のディーラーや、町内の昔からの電気屋さんは、顧客が何年同じ車に乗っているか、テレビを買ってから何年経つか、ちゃんと知っているものである。メンズショップも、かつてはこういう情報をインプットし、スーツやコートの新調時期を顧客に促したものである。一種の企業努力である。それを煩いと取るかサービスと取るか、今日の常識は昔と異なっているかもしれない。だが量販店もいずれ出店のスピードが鈍るであろう。そういうとき、顧客サービスが生き残りの分かれ目となるかもしれないのだ。



「ポール・ニューマンの綿パン」

 アイビー・リーグ出身の俳優として、数々のハリウッド・スターが挙げられる。ジョディ・フォスターがイェール出身とか。ポール・ニューマンは、その一人ではない。オハイオ出身だからね。だがそのトラディショナルな格好が似合う雰囲気は貴重だ。そのためもあって、日本にもファンが多い。
 俳優は役柄に合わせて着るものを用意され、それを役柄にふさわしい着こなしでスクリーンに見せることを要求される。ポール・ニューマンがアイビー・リーグの出身らしき役柄をこれまでこなし、画面の上でそれらしかったのは、ニューヨークの弁護士とか、そういう主人公を演じた場合に限られる。
 例えばアンソニー・パーキンスのように、もう出てくるだけでアイビー、という役者ではない。しかし今日残されているスナップ写真では、オハイオ出身というカントリー・ボーイらしからぬセンスを見せている。有名なアクターズ・スタジオで学んだということも、これには影響しているかもしれない。ニューヨーク真ん中の学校だからね。
 そういうスナップの中に、レンガ色の綿パンツの裾を、五センチくらい折り返して穿いているのがあって、大層よく似合っていた。これは参考になりそうだ。
 こういう半端な色のパンツは、量販店のセールの棚に時折見かけるから、要注意。つまりその、安く買えるのである。
 一律なものの考え方をするのが日本人の通弊で、島国根性というのは、そういう横一直線が安心できる日本的思考の果てにある。などと何も大袈裟に書くこともないのだが、量販店を使いこなしてダンディになるという本書の意図からすると、そういう発想を逆手にとって、人があまり買わないものを安価に手に入れることがある。こういう隙間狙いを諸兄に勧めたい。つまり常識を外すのだ。
 綿パンなら生成と呼ばれるオフ・ホワイトに限る。人々はそう思っている。固く信じている。これが常識である。だが見渡すと、お店には生成ばかりではなく、結構他の色目も揃っている。
 これを狙うのだ。
 スタイルや裾幅をチェックし、定番の美脚タイプであることを確かめ、赤や青や黄色のズボンを選ぶのである。少し幅を広げて、暗緑色や薄茶色などというのもある。さらには黒も。要するに何でもありということだ。ここでのポール・ニューマンのように。もっともあのレンガ色は、日本にない色目かもしれない。そういう色があるのだ。
 それはとにかく、常識を外すと何が得られるか。それは価格である。誰もが見向きもしない、そういう色のズボンはセール価格になっている。
 だが生成はもう一本持っているというなら、別の色で行ってみたら、どうだろう。
 大事なことは、もう定年を迎え、余計な心配、すなわち組織の思惑や上司の目を気にすることはない、という事実だ。誰はばかることなく、面白い色の綿パンを穿いて楽しむのだ。
 かつて筆者は朱色の綿パンを穿いていたことがある。朱色だよ。それを今でも覚えている人が何人もいることを最近知った。三〇年以上前の話である。
 今もそうであるが、当時はさぞ目立ったことだろう。なにしろ朱色である。神社の巫女さんの穿く袴みたいな色ね。
 美脚タイプという言葉は、まだない。しかしサイズも裾幅も、そして脚入れの具合も良かった。最高に穿き心地の良いズボンだった。
 スコットランドの取材に持って行ったが、ブルー・ブレザーとのマッチングは大変良かった。
その少し前に本場イェールの合唱団が来日し、その面倒を見ていた時に、こういう色のズボンを穿いた学生がいたのだ。ブルー・ブレザーは何でもありだな、と感心した。
 それが、当時のことだから量販店ではなかったが、どこかのメンズ・ショップ店先で見つかった。セール価格であったのと他の諸々の条件が合ったので、手に入れた。
 或る編集者は大いにこれを称賛し、なんとか自分も買いたいと東京中のメンズ・ショップを回ったが、見つからなかったと残念がっていた。そういうものかね、と思いましたね。
 残念ながらどこへ行ってしまったか、今はもう手元にないが。ポール・ニューマンの綿パンのスナップを見た時、これを思い出した。定年世代には、こういう色目の綿パンは面白いのではないか。
 何も生成ばかりが綿パンではあるまい。そう感じたのである。そして時々量販店の隅の方に肩身狭そうに置かれ、セール価格で売られているズボンを想像したのである。なにしろ千円台で売られていたりする(いつもそうではないが)のだ。これは見逃す手はありませんね。
 それはとにかく、当該スナップに戻って説明を続ける。ポール・ニューマンはセオリー通り上部すなわちボディは大きめに仕上げ、さらっと着こなしていた。
 すなわち白いTシャツに紺のコットン・セーターを着こみ、その裾で腰もすっきり覆い、綿パンに繋ぐ。足元はスニーカー。折り返しの裾が通常の幅を大きく超え、五センチというのがミソだ。
 ごくカジュアルだが、スマートで若々しく見えるのですね。紺のセーターと、白いTシャツに、レンガ色のパンツ、という取り合わせが見事である。
 勿論西洋的なオフ・ホワイトの綿パンツ姿のポール・ニューマンも、バスのローファーと共に穿きこなしているのが知られている。要するにアイビー・オリエンテッドな、つまりアイビー志向の強い俳優だったのである。 
 170センチをそんなに超えない身長だがスラリと見せているのが、我々には大いに参考になる。だって「タワリング・インフェルノ」でスティーブ・マックイーンと並んだとき、ドッコイドッコイだったでしょう。決して大きい男ではないのだ。
 因みに数あるスナップには、綿パンの裾幅が三〇センチ近くあるものを着用しているのがあって、これだとどんなにポールが頑張っても、カッコ良く見えないのである。
 ハリウッドの宣伝係というのは、こういう取捨選択を厳しく行っているのだと知る。それでも思わず不適切な、カッコ悪い写真が外部に漏れ、出回る。そんなことがあるのですね。
 敢えて欠点を暴くようだが、その写真を見ると、彼が一七〇センチを大きく超えないことが、はっきり判る。
 しかしそんなことは、どうでもよろしい。ある意味で、こういう如何にも何でもないポール・ニューマンのようなキャラが、日本人のお手本として相応しい、というのが重要なのである。
 彼の綿パンスタイルはごく真っ当で、アンソニー・パーキンスのように、どう逆立ちしても我々日本人が真似するのは無理、という超絶技巧的なものではない。だから、安心できる。
 綿パンに白のボタン・ダウン・シャツという定番ルックが、誰にでもお手本に出来るキャラクターは、ハリウッド・スターとして貴重である。
 おそらくは大男の揃ったハリウッドで、自己主張すなわちアイデンティティを確立するのは大変だったことと推察する。それを行いながら編み出したのが、ポール・ニューマン・スタイルだったわけで、これは同じく小柄のロバート・レッドフォードにも通じるが、両者はどこかで決定的に異なるものを持っている。面白いものである。
意外なことに、ポール・ニューマンがユダヤ系である、というのがその差かもしれぬ。だがそれは本書のテーマとは外れるだろう。

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